翻案という行為について

こんにちは。演出の村野です。拙文にて失礼します。芹澤さんにお願いして、書かせていただいてます。

『班女』で三島の行った「翻案」について、考えてみました。


新潮文庫「近代能楽集」のあとがきで、ドナルド・キーン氏はこのように述べています。


――三島氏は自分が書きたいような筋のある謡曲を探して室町時代の原作家と自分の趣味が一致するものばかりを選んだのだ。


身もふたもない表現ですが、三島は何がしたいかという自意識がはっきりした作家でしょうから、さもありなんといったところです。

では三島は何が書きたかったのでしょう。


三島の『班女』が発表されたのは、芹澤さんが前のブログで書かれている通り1955年。

日本の敗戦は1945年。直後は、戦勝国アメリカによる日本の民主化・非軍事化を目的とした統治を受けていましたが、

そのアメリカ国内で反共の気運が強まったことから「逆コース」が始まり、

民主化よりも日本を地理的な要因から「共産主義の防波堤」とすることが一義とされる政策が取られるようになりました。

1950年に朝鮮戦争勃発。日本はアメリカの兵站地となったことから「朝鮮特需」と呼ばれる好景気が訪れました。

このおかげで、1955年には日本国内のGDPも個人消費も戦前を超えた水準になり、この後の高度経済成長に向けた礎が築かれました。

そしてこの回復過程により、現在に至る日本経済の深いアメリカ依存が始まったのでした。


三島はその死に至るまで繰り返し、経済が回復するにつれ「日本国民」の精神状態が荒廃していく危機を指摘し続けます。

三島が割腹自殺直前に、ごく信頼した知人数名に送ったとされる「檄文」にはこうあります。


――われわれは戰後の日本が、經濟的繁榮にうつつを拔かし、國の大本を忘れ、國民精神を失ひ、

本を正さずして末に走り、その場しのぎと僞善に陷り、自ら魂の空白狀態へ落ち込んでゆくのを見た。


1955年には既に十分に「経済的繁栄にうつつを抜か」す気配が漂い始めていたことでしょう。

作品を通して、三島は警鐘を鳴らし続けてきました。過剰な自意識に囚われていた三島にとって、自分の行為さえも一つの作品であるとするならば、

割腹自殺という行為も、同様の目的をもって行われたと考えることができます。


このような生き様・死に様をふまえて三島の翻案した『班女』と向き合うと、

三島が何をもって「生」つまり是とし、何をもって「死」つまり非としたのかが、

ある鋭さをもって立ち上がってきます。


登場人物「実子」は、最初からある苛立ちをもって登場します。

「実子」にとって「花子」は精神的な充足をもたらす美、「待つ」という葛藤を伴う行為を経て洗練された宝石。

そこへ「吉雄」という、大衆的な生活感覚を持った他者が、大衆的メディアである新聞に載った記事をよすがに、

花子を奪いにやってきます。

これだけでもわかりますね。三島の考えそのものを体現した関係性が十分に描かれています。

そして吉雄は去り、花子と実子は充足した文化的・芸術的時間を送ることを共に選択します。


三島が作品を通して、行為を通じて、命をかけて伝えたかったことは何か。価値あるものと訴えたかったのは何か。

それは決して、「戦前はよかった」といった安直な国粋主義に回収されるものではありません。

もっと長い時間をかけ、歴史を経て磨かれてきた文化的営為なのだと思います。

だからこそ、あえて能を現代劇に翻案するという方法を選んだのではないでしょうか。

過去と未来の触媒を、自ら買って出たのではないでしょうか。


いま起きているパンデミックは、経済活動を重視したグローバリズムゆえの必然的結果とも言われています。

グローバリズムは、経済力を背景に各地域の文化や生活習慣を破壊してきました。

国境を越えた移動のコストとリスクが減り、地球があたかも一つの小さな村になったことは、運命共同体としての人類にとって決して悪いことばかりとは思えません。

ですが、何をもってつながるかは、今一度立ち止まって考えるべきところなのではないでしょうか。


三島が現状の混乱を前に「ほら、だから言ったでしょう」と愛想のない顔で呟く姿が、目に浮かびます。

三島が体を張って後世に残した課題を受け止め、今だからこそできる『班女』を、このチームで丁寧に実現したいと思います。


近場にいらっしゃるなどで会場に来られる方はよろしければ会場へ、

来られない方は、是非とも配信でご覧いただけますと幸いです。



演出・村野玲子 拝

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